「わたし」を分かち合いたい。

智慧を生きる人。自由気ままに絵を描くように、その命で智慧を表現する。“智絵”の名の通りに生きる。

寛容さと理解と進化

 

 

なぜだかわからないけれど

【精神的な疲労から、この歳になって、おねしょしてしまう、そして、それが周囲にバレてしまう(!)】という、なんとも恥ずかしい夢を見た。爆

(目が覚めて、シーツが濡れてなくてホッとしたのはここだけの話…)

 

 

その時、夢の中で、はっきりと覚えていることとして、

 

 

周囲の人は、“大人になっておねしょをした”という

“してしまった事実”に、関心はあっても

 

 

“なぜ、人がそれをしてしまうに至ったのか?”という

精神的な部分をほんとうに理解しようとする人は、ほとんど、いなかったこと。

 

 

出来事が、単に失敗か成功か?いいか悪いか?というレベルでしか、理解・判断されないことへのもどかしさ?みたいなものを夢の中で、感じていた。(どんな夢やねん)

 

 

 

 

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失敗に対して、あたたかい社会だといいな、とおもった。

 

 

何か失敗をしたら、その事実だけが大きく報道されて、バッシングを受けたり、みんなで叩き潰してしまう世の中は、無意識に、お互いに、失敗を許さないぞ、、という雰囲気を醸し出すのかもしれない。

 

 

そして、たとえ自分の過ちに気づいたとしても、恐怖感からそれを隠したくなったり、誰かの別の失敗を引き合いに出すことで、自分についてごまかしたり、正当化してしまったりするのかもしれない。

 

 

まずは個人レベルで、間違ってしまうことも、ミスしてしまうことにも、寛容でありたいとおもう。

 

 

意見は、気づいた瞬間から、変えたっていい。

間違えたら、振り出しに戻って、一からやり直せばいい。

いつだって、変わっていい。

 

 

そんな寛容さを個人の内面で保つことによって

正直さがうまれ、正直さから、より良く進化する種がうまれる気がする。