「わたし」を分かち合いたい。

智慧を生きる人。自由気ままに絵を描くように、その命で智慧を表現する。“智絵”の名の通りに生きる。

思考を超えていく

 

 

他人のしたことや、しなかったことを見て、

あたかも自分が正しいかのように、それらに何らかの批判を振りかざして反応をする、「評論家」のような、「政治コメンテーター」のような存在が、自分の中にいることに気がつけた時は、チャンスかもしれない。

 


まず、その反応的な口を閉じてみる。

自分が話すこと、行動することを、その「コメンテーター」や「評論家」に乗っ取られてはいけない。

 


だって。

でも。

普通は。

あの人が。。

 


口を閉じると、それに抵抗するかのように

頭の中には、どんどん、このような↑正当化するような言葉が出てくるかもしれない。

 


この時、負けてはいけないとおもう。

エゴと自分を引き剥がす際の一番の踏ん張りどきかなとおもう。自分の力量が試される。

 


それでも、反応することをやめられない時は、目も閉じてみる。見える景色、視覚情報を遮断する。

 


本当の自分ではない、その偽の存在(コメンテーターや評論家のようなアイデンティティ)にとっての、反応の餌(たいがい他人や外側のこと)となるもの、五感情報を与えないようにする。

 


そして、ゆっくりと呼吸に意識を向けて

内なる空間を感じにゆこう。

外に向いた意識を内へ。内へ。

 


わたしとは、この内なる空間のことであり

自分は、外側の何かによって減ったり増えたりするようなものではない。今までも。これからも。

 


そのような気づきが、少しずつ起きてきたら、

今という瞬間に、どっぷりと安心していることができる。

他人に意識を向けることで、エネルギーを消耗してしまうことなく、今という瞬間にわたしという純粋意識の柱を立てることができる。これこそ、宇宙とわたしの再接続である。

 


このようにして、自分の中で育って一体化していた、偽のアイデンティティーに自分自身で気づき、

それから自分を引き離すことができたとき

本当の自分の感覚が内側にあらわれてくることがはっきりとわかる。

 


その時、人の意識は、新たな段階へと、進化成長するのだと思う。

 


偽のアイデンティティに餌を与えないことによって、一瞬自分の何かが縮んでしまうような、感覚が起きるかもしれない。

けれど、餌を与えずに、その不快感をじっと観察し、そこにとどまることによって、それらは雲のように流れていくものであり、やがては消え、そして自分の内なる空間は広がっていることに気づくかもしれない。

 


そして、脳は、深い部分では、他人と、自分を切り分けて考えられる性質を持ち合わせていないので、他人に向けた刃は、同様に自分に向かう刃にもなり、自分自身の自由を奪い、その思い込みこそが自分の首を締めていたことに気づくかもしれない。

 


そんなことに気づいたとき、

起きる事は偶然ではなく、他人を通して、大切なことに気づかせてもらえたこの機会と、批判の対象であったはずのその相手に、そして、この巧妙な気づきのシステムに、心の底から感謝の気持ちがわいてくる。