「わたし」を分かち合いたい。

智慧を生きる人。自由気ままに絵を描くように、その命で智慧を表現する。“智絵”の名の通りに生きる。

 

※フィクションです

 

 

 

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この世界には、鬼がいる。
鬼は、どこから来たかはわからない。
そして、鬼は目に見えない。

    

けれど、油断した人間にスッと入り込み、

宿主の思考を乗っ取り、生息しはじめる。

まるで、ウイルスの生態に似ている。

 

まず、じわじわと思考を乗っ取り、

そして言葉を、行動を。

順番に乗っ取って、そうして偽りの人格と人生を形成する。

 

それを拡大すべく、周囲にばらまき、

そうした結果、集合意識を形成し、その存在を強固なものにしていく。

 

鬼は、あなたに幻想を見せる。

あたかも、それが真実であるかのように。

あなたは、それを幻想だと信じられない。

 

鬼は、あなたに

 

罪悪感を感じさせる

無価値感を感じさせる


あなた(あの人)は価値がないと思わせる

あなた(あの人)は価値があると思わせる


あなた(あの人)が間違いだったと思わせる

あなた(あの人)が正解だったと思わせる

 

全てが間違いだったと思わせる

これが正しい、と思い込みたがる

 

他者に過ちを認めさせたい

正しさを主張したい

 

いかに優れた人間かを主張したい

いかに劣った人間かを感じたい


コントロールしたい、されたい


劣等感を与えたい(浸りたい)
優越感に浸りたい(与えたい)


自分(あの人)は

選ばれた特別な人間だと思いたい

自分(あの人)は

選ばれない人間だと思いたい

 

あれがないと幸せになれない

これさえ手に入れれば幸せになれる


幸せは行き渡るほどなく、

限られたパイを勝ち取り、
奪わなければならない

 

勝ち取れた優越感と

拭いきれない劣等感

 

 

鬼は、そのような数々の幻想を膨らませ、分断させる。

相対の世界でシーソーゲームを繰り返す。

 

 

鬼は、どこからともなくやってくる。


問題は、自分のところにやって来たときに
どのように関わるかである。

 

そして、最も大切なことは
鬼が来た時に、その事に真っ先に気づける自分であること。


そのために普段から、感性を鍛錬しておくこと。

自分の感性を常に、疑い、常に、信じること。
感じることを鍛錬していくと、より高度に偽装した鬼の存在に気づけるかもしれない。

 

鬼を察知した時に、最も効果的なのは、
戦わずして、鬼に餌を与えないこと。
餌とは、何かー。

 

それは、その時々で感じられるものだから
一言では書き尽くせないけれど
鬼の言い分をよく観察していると
その答えは少しずつ見えてくる。

 

ただし、鬼に乗っ取られた人間(自分を含む)を
鬼そのものだと勘違いしてしまわぬように。(これこそ鬼の思う壷)

   

餌を与えられなかった鬼は
行き場を失って、他に餌を求めてどこかに行ってしまうかもしれない。

餌を与えられないことに腹を立てて(もしくは悲しみに浸って)
必死に、けしかけてくるかもしれない。

 

そんな鬼の言い分にもまた
ほうそうか、と眺めてみるだけでいい。

 

真正面から純粋な眼差しで見つめられた鬼は
鬼自身の消失を恐れて、いかにも正当な言い訳をつけて、暴れだすかもしれない。

 

そんな鬼の言い分にもまた
ほうそうか、と眺めてみるだけでいい。
加担せず、否定もせず、
ただジッと眺めているだけでいい。

  

そのように、餌を与えないことで
宿主自らが真実に気づき
偽りの自分を手放すプロセスを手伝うことになるかもしれない。

 

また、そのうち鬼のことを
少しは理解できるようになるかもしれない。
ただし、決して頭で理解しようとしない事。
そうすると、鬼の持ち込む世界観に呑まれやすくなってしまう。

  

理解せねばならないことは、何もないと知っておくこと。
理解とは、自ずと内側から湧いて、感じられる事であり、理解が必要なタイミングで、もたらされる叡智だから。

 

時には、鬼をそっと
あたたかさで包みたくなるかもしれない。

 

その暖かな眼差しで、鬼は溶けてゆく。。

 

風の時代に手放す、内なる鬼たち

 

お伽話のような、ホントの話。