「わたし」を分かち合いたい。

智慧を生きる人。自由気ままに絵を描くように、その命で智慧を表現する。“智絵”の名の通りに生きる。

カラコン

 

 

 

 

日本人にとっての「かわいい」と

アメリカ人にとっての「かわいい」と

アフリカ人にとっての「かわいい」は

当たり前だけど、違うらしい。

 

 

場所も、人も、文化も違えば

価値観も基準も、真逆なほど違うことがある。

 

 

 

さて、日本は、どうだろう?

 

 

 

日本人にとっても、オーソドックスな?

これが「かわいい」とされる、一般的な“型(イメージ、象徴)”みたいなものが、いくつもあるのかもしれない。

 

 

仮に、そのジャパニーズカワイイ的な型があるとしたら。

現在、日本に住んでいて、今後もずっと日本に住む予定なら、自分の外見なり、何かしらを、型に当てはめた方が、色々有利に思えたり、自己価値を高められるような、気になれるかもしれないけれど

 

 

ある時、ふと、おもったんだ。

 

 

 

型(イメージ)に、自分をはめこんで

その型を愛したとしても

何の意味があるんだろう?

 

 

型に、変に自信を持ってしまうと

型を、崩さないように、崩さないようにと、動いてしまう。

 

 

そんな偽りの自信みたいなものに囚われた、窮屈な生き方は、自分らしくない。

もっと、自由にのびのびしたいし

何より、わたしが、わたし自身に満足していることが大切で、全員に褒められたり、かわいいと思われなくていいや。

そんなふうに思えた時、急に肩の力がスッと抜けたことを思い出した。

 

 

当時、特に好きな異性に、かわいいと褒められたら、嬉しかったんだとおもう。

だけど、その裏で、なんだかちっとも、嬉しくない自分もいた。笑

 

 

 

だって、ほんとうは、ありのままの自分に自信がなくて。

そんな自分を隠すために、

少しでも、素敵に(だけど、あくまでナチュラルに。元々そんな感じという風に!笑)見られるために、仮面を被っていたことは、誰かにごまかせたとしても、自分だけは知っていたから。

(むしろ、そんな内面を抱えた自分だったから、人からの褒め言葉も、喜びとして、素直に受け取れなかったのかもしれない)

 

 

 

作り込んで、当てはめた型を誰かに褒められて、

「そんな自分(と錯覚したもの)を好きになる」という報酬系の思考パターンを繰り返している自分に、ある時、強烈な違和感を覚えた。

そもそも、目の疲れ的にも、“何もつけなくていいなら、つけたくなーい!”って心が叫んでたことにも気がついた。

 

 

 

それから、あれだけずっと手放せなかった、カラコンをパタリとやめたんだっけ。

あの時の、爽快感、すごかったな。爆

最初は、当たり前につけてたものを手放す不安があったけど、段々と心地よさの方に慣れていって、気づいたら、必要なくなってた。

 

 

 

 

掃除していたら、懐かしいカラコンを見つけて、そんなことを思い出した。

今はもう必要がなくなったけれど、緊急時用に、メガネ以外の選択肢として、大切にとっておこうとおもう。

 

 

※個人的な体験です。カラーコンタクトを否定するものではありません。