「わたし」を分かち合いたい。

智慧を生きる人。自由気ままに絵を描くように、その命で智慧を表現する。“智絵”の名の通りに生きる。

美の変化

 

 

自分の感じ方。

それは、自分の変化や成長とともに

いつも変わっている。

 

好きなもの、心地いいと感じるもの。

それは、その時々、大切にしているものや価値観によって、いつも変わってきた気がする。

 

 

ちょうど少し前に、器の展示会に行かせてもらう機会があり、改めて、自分の美や心地よさの感覚が

少し前とは明らかに違っていることに気がついた。

 

 

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「自分の容姿に対する美」ひとつとっても、大きく価値観が変わってきた。

 

 

昔は、バッチリメイクして、カラコンつけて瞳を大きく見せるのが好きだった。

それが、他人から見て、“すてきに見える”とおもっていたから。(ぶっちゃけ、仮に無人島で1人なら、たぶんそれら全てやらないかもな、とおもった)

 

そんな時は、ファッションも雑貨も、“すてきに見られそうなものかどうか”という価値観を軸に、選んでた気がする。

 

どちらかというと、そのもの自体を見て、好きというよりは、

「すてきに見られる自分を演出してくれそうな感じ」に“キュン”ときていたんだとおもう。

そのことを「それが好き」だと思ってたし、表現してた。

 

そして、素敵な人に見られた暁には、他人に認められたい、モテたい、異性を惹きつけたい、という思いもそこにはあったとおもう。

 

確かに実際に、その時は、一時的に異性を惹きつけることができた実感もある。(自分で言う←)

が、結局、そういう惹きつけ方をした以上、着飾った自分の容姿や若さ、外見的な条件に近寄ってくる男性ばかりで、等身大の自分そのものを見てくれる人には出会えなかったのも確か。(チーン)

 

 

時はたち。

今度は、ナチュラルに“見えるもの”を好むようになっていった。

メイクもナチュラルメイクを好むように。

 

たぶん、他人の期待や異性の理想像を演じようとするのに、疲れたんだとおもう。

他人の理想像ではなく、自分がこんな風になりたい、という、自分の好みみたいなものが、この頃、はっきりしてきた。

 

この頃から、木や自然っぽい感じを好んで選ぶことが増えた。

煌びやかで、華やかなアンティークも好きだった。

 

自分をときめかせてくれたものはきっと

「“理想とする自分”になれた気にさせてくれる感じ」

 

 

その感じがするものを身につけたり、持つと、

理想の自分になれているかのように、ある意味、演出・錯覚させくれたので、とても気分を上げてくれた。

これで、自分を好きになれた気がしたから。

 

今の自分に何かを付け足すことによって

今この瞬間の、ありのままの自分に実は、満足していない自分の側面や、ありのままでは完璧ではないという感情を一時的に見なくて済んだ。

 

 

これも、とても大切なプロセスだったとおもう。

 

 

そして、さらに時はたち。

なんかもう、全部いいや。という境地になってしまった。

 

 

色んなものを脱ぎ捨てたら、理想の自分みたいなものも薄くなって、今この瞬間のわたしをストンと受け入れられるようになってきた。

 

 

ここにきて、こうなりたいみたいな理想のイメージを持つことも、理想とする自分のキャラやアイデンティティみたいなもの(自分が自分を好きになれそうな感じに自分自身を落とし込むこと)を演じ続けることにも違和感が出てきた。

 

 

そのかわり、ただ、純粋に

自分でありたいと思うようになった。

自分が自分に、期待するセルフイメージという枠を押し付るのをやめた。

 

 

そのへんから、余計なものが削ぎ落とされた純粋なものが好きになった気がする。

付け足すものも引くものもないという感じ。

ちょうど、スッピンの心地よさを知ったのも、この時期。

 

自分の欠乏をモノに投影して、その投影したイメージを好きになるのではなく、

やっと、そのモノ(自分を含む)をありのままを見て、心地いいという感覚がわかってきた。

 

 

付け足したすことではなく

削ぎ落とされることによって、

逆にそれらの本質の存在感を感じた。

 

 

“今ここの自分”に何かを足して

理想とする自分に近づいたように錯覚させてくれるものを手放すのは、時に勇気がいる。

理想の自分像に近づくと、自分を好きになれると錯覚するから。

 

 

だけど。

そういったごちゃごちゃとしたものを手放した今、なんだか色々がとてもシンプルになってきた。

今ここにはない、どこかの理想を追い求めなくていいから。

 

 

 

そして、余計なものがない、だからといって足りないわけでもない、ちょうどよさ(それを自分の中に流れる自然さというのかもしれない)を

心の中心に置いて生きると、なんだか潔さと充足感に満ちてきて、とっても気持ちがいいんだ。

さらに、自分のありのままを心地よく感じるたびに、世界のありのままを心地よく受け取れることにも気づいた。

 

 

こうやって、心地よさは、どんどん変わってきた。

 

 

どの段階がいい悪いというより、

どの段階も、その時の自分にとっては大切で、その瞬間感じうる最大限の心地よさだったのは間違いない。すべてが大切なプロセス。

 

 

その瞬間の最大限の心地よさを大切に生きると

さらに感覚は深まっていくのがわかる。

ある時、次の心地よさへの更新がお知らせとしてやってくる感じ。

 

 

また、今後もさらに自分の変化とともに深まっていくのだとおもうから、その深まりを楽しんでいきたい。

 

 

器の展示会で、そんなことを感じた。