いのち
少し前に、久しぶりに、BBQに参加させていただいた。
その会での話を、今日はしたいとおもう。
ところで、最近、わたしは、菜食中心の食事をしている。
いわゆる、ヴィーガン的な思想があるわけではない。
単純に、美味しいし、今のところ心地いいと感じる暮らしを選択した結果、今に至っている。
何がなんでも、お肉は食べない!という感じでもないので、時折、出していただいたりしたものは、ありがたく、いただくこともある。
この日は、BBQということで、ここぞとばかりに、お肉が焼かれた。
きっと皆、お肉が好きだろう。BBQといえば、お肉でしょ!という主催者の方のはからいだったのだとおもう。
わたしが菜食中心なことは伝えていなかったのもあり。
お肉は、ひたすらに、焼いて、焼いて、焼きまくられていた。
正直、今の自分の感覚で、食べたいと心から感じられるものは少なかったけれど、せっかくの機会なので、楽しもう!とおもった。
会が中盤に差しかかった頃。
明らかに、皆がお腹いっぱいになっていた。
にも関わらず、お喋りしながら、何気なく新たに網の上にお肉が追加され、焼き続けられるお肉。
横には、すでに長い間、焼いて固くなり、誰も手をつけないお肉の塊の山。
一体、誰がこれを食べるのだろう?
ふと、疑問に思ったのだけれど、誰もそこに疑問を持たないのか、無造作に、ひたすらに焼き続けられるお肉たち。
そうこうしているうちに、ついに、、会が終わってしまった。
皆で後片付けをしよう!ということになり、食器を片付けたりしていたものの、あのお肉の山のことが何となく気になっていた。
うーん、この沢山のお肉は、どうするんだろう?
わたしは、食べれないし、、
持って帰る人いるのかな?
そう(であってほしいと)思ったけれど
誰もその気配はない。
「もう捨てるしかないですよね。」
近くにいた女性が、たくさんの焼かれたお肉の山の前に立ち尽くすわたしに、少しためらいながら、ポツリと話しかけてきてくれた。
「…そうですよね。」
暗黙の了解なのか。
何かしらの罪悪感からなのか。
それとも、何も感じないのか。
それとも、どれでもないのか。
何がその場にいた人をそうさせているのかは、わからなかった。
けれど、あのお肉の塊の山から、言葉にできない異様な何かが発せられており、無意識に誰も近づかない雰囲気が醸し出されていた。
わたしは、それらのお肉の塊を、じっと見つめてみた。
しっかりと見つめた。
そして、わたしは、この手で、ゴミ箱に葬り去ったんだ。
ーーーーーー
あの時の何とも言えない感覚。
あっけなく、何かが流されていく感じ。
誰かを責めたい訳じゃない。
悲しいわけでも、自分を責めたわけでもない。
ただ、とても大切な何かが、掌からこぼれ落ちるような、小さな痛みに似た何か。
その何かが、わたしの心の中で、ずっとひっかかっていた。
「あのゴミ箱に葬り去られたいのちは、何のために生まれてきたんだろうか?」
人間により、管理され
食用として生かされたにも関わらず
一口も食べられず、
それを欲したはずの人間に、意識すら向けられずに。
ただ、死に、焼かれ、ゴミ箱へいってしまったあの肉の塊の元となる、牛のいのちについて
思いを馳せると、しばらく無力感に包まれた。
その時、ポツリと、感覚が心の内に湧いた。
“こんなこと。
こんな食べ方、もうしたくないな。”
その感覚が湧いたと同時に、望みの矢が放たれた。
“わたしは、いのちを味わい愛でる生き方がしたい。”
そんな想いが、湧いてきた。
そうだ、食べ方は、生き方なんだ。
いのちに対する在り方やバランス感覚を大切にしながら
その喜びと恩恵を、十分に感じながら、いのちを味わい愛でる食べ方をしたかったんだ。
うん。それがいい。
その感じが、いいよね!
しっくり感とともに、その時、ようやく少しモヤが晴れた気がした。
そのしっくりくる感覚と共に、わたしの奥の方で、「自分にとっての真実」を指し示す何かがカチッとした。
その瞬間、心の奥から、あたたかな感謝の気持ちが湧いてきて、ふわっとあたたかい風が心の中に吹いたのを感じた。
そして、その瞬間、曇りがかって感じられていた、あの焼かれた牛たちのいのちが、再びキラッと輝いた気がしたんだ。
「あのゴミ箱に葬り去られたいのちは、何のために生まれてきたんだろうか?」
あの時の問いの答えが、何となくわかった気がした。