人とわかり合うための要所
物事の要所は意外なところにあったりする。
それは、
何をしたらうまくいったか?という
「実際にやったこと」ではなく
自分がどう在りたいか?という
「どういうつもり(=意識)でやったかということ=意識状態」
であるということ。
例えば、最近のわたしの例。
わかってもらいにくい話を人に話する時、
「わかってほしい」という思いを持っていた頃は
どんなふうに話せばわかってもらえるかばかり考えていた。
なるほど。まずは、結論から。そしてその根拠を提示するといいのね。ふむふむ。といった感じだ。
だけど、それだと伝わらないことを何度も経験するうちにこれは話し方の問題ではないのかもしれないと思い始めたのだ。
わたしは、どうしたいんだろう?
もはや、伝わるかどうか以上に、この話すという機会において何か大切なことがあるぞ。
そのことをずっと掴みたかった。
ある時、それは降りてきた。
わたしは、自分の意見をわかってもらえること
自分が正しいことを理解してもらえること
そしてその結果、相手に正しいことを選択してもらうことを重視していたけれど、本当に大切にしたいことはそうではないことを感覚的に理解したのだ。
だって、その時、苦しかったから。
わかってもらえないことをわからせようとする瞬間、自分が苦しみに自ら繋がってしまっていることに気がついた。
つまり、その時、わたしは幸せを感じていなかったのだ。
そこから、自分が正しいこと、自分の伝えることに価値があることを理解してもらう以上に、
自分の幸せについて考えるようになった。
自分がなぜこの話をしようとしているのか?
それは、目の前の人を大切に思う気持ちがあるからだった。
その人の笑顔が、わたしは好きだった。
愛していた。
そのことを想うと、心がポッとあたたかくなった。
そして、その人の可能性を信じている時も心が軽くなるのがわかった。
これだ!これこれ。
わたしの求めていたことはこの感覚だった。
それがようやくわかったので、
次に話す機会が来たら、自分の幸せを一番に考えて伝えようと思った。
そして、ついにその時がきた。
わたしは、自分の感じていることに意識を向けながら話した。
「あなたは大切な存在です。何を選んでも可能性は無限に広がっています。その選択肢を広げる一つとして、こんな話はいかがでしょうか?」
そんな“つもり”で、話をした。
“つもり”なので、↑のようなことを直接言葉にして話したわけではない。
情報はこれまで伝えてきたことと同じ内容だったけれど、なるべく情報やその情報がいかに正しいかに意識を向けるのをやめた。
何を話すか、どう話すかよりも
自分の「つもり=想い」の部分に意識を集中させた。
伝わるかどうかは、もうどうでもよかった。
その時、わたしは、またあのあたたかいポッと火が灯る感覚を感じながら話していた。
わたしは幸せだったんだ。
もはや、言葉は考えを話す為にのものではなく、想いを乗せる道具になった。
想いが主体にあり、それを表現する為の言葉であり、情報は淡々とその想いにのせていった。
程なくして、相手が今まで以上に心を開いて話を聞いてくれていることに気がついた。
あれだけ、意思疎通が難しかった相手が、スッと話を聞いてくれたのだ。
話の内容は以前伝えていた時から変わらない。
だけど、振り返ると、わたしが何のためそれを伝えているのかを意識したことが変わったのだとおもう。
話し方に関しては、全く意識していなかったので、ハチャメチャな話し方だったとおもう。笑
つまり、何が言いたいのかと言うと、
何をしているかということ以上に、どういう意識状態であるかということが人間関係で大きく影響を与えているかもしれないということ。
会話では、情報のやり取りをしているように見えても、思いや目に見えない感覚が、発せられており、無意識にそこでキャッチボールがなされているということ。
意識状態と言うと、難しいけれど、要は
「わかってほしい」「認められたい」「正しいことを主張したい」という小さな自分の枠から解放されて
自分がどうありたいか?という自分の本当のニーズを汲み取り、できるだけ忠実に、正直に表現する(その為には自分の感覚に集中することが大事!)機会に、人間関係を活用すれば、相手も自分も双方が調和した点に出逢える。
何より、相手がわかってくれるかどうか?相手が認めてくれるかどうか?相手が愛してくれるかどうか?という、相手に依存する必要がなくなるので、気持ちがいい。
これは、自分を幸せにしながら周囲の人とも調和する要になる智慧だと思ったので、ここに記しておこう。