「わたし」を分かち合いたい。

智慧を生きる人。自由気ままに絵を描くように、その命で智慧を表現する。“智絵”の名の通りに生きる。

ピュアなわたし

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自分の内面に意識的になろうとする時
いつも批判的観察がはじまる。

時々、自分のそういった取り組みについて人に聞かれることがあるので話したら、「生きるの、大変じゃない?」と目を丸くして驚かれることがある。

でも、それはむしろ面白く、発見と驚きとスッキリ感の連続で、全然大変なんかじゃない。

いや、なかなかの集中力がいるのは確かで、大変といえば大変なのかもしれない。(どっちやねん!)
だから、時々手を抜いてしまうし、ほどよく気も抜く。(抜くんかい!)
でもやっぱり面白いから、やめられない、とまらない。(カッ◯えびせん)


わたしの中でこの自己の内面に対する「批判的観察」はめちゃくちゃ重要で。
特に微細なエゴに走りがちな時は、ここの筋力が弱い。(まるでインナーマッスルが弱いみたいに言う。)

批判的観察とは、
自分の中で起きていることを明確に意識して、できるだけ正直に、ごまかさずに観察するという意味で、たしかに厳しく自分を観察する。


でも、実際に自分に対して批判的になって卑下しよう!ってことではなく、なるったけ細かく注意を払ってその状況の中で真実を見つめようとする姿勢をとること。

何か問題が起きた時に、焦って行動に走ったり、方法論で外側のアプローチから解決しようとする事はたやすいのかもしれない。(私、アウターマッスル使いがち)
でも解決以上に、わたしはわたしでありたいと願う気持ちが強くなってきた。

 

自分の内側(インナー)を意識して使うと

新しい自分が創造されてくのかわかる。

 

そうした過程の中で、自分の中の偏りやこだわりを見つけた時、これまでこの世界で演じようとしていた役割ではない、もう一つのピュアな自分を発見するのかもしれない。

 

ちなみに行動できる(アウター使える)のも大事だと思っている。たとえば、いつも言いたいことを言えなかったり、我慢しがちって場合は一旦アウターを使うのがおすすめ。

アウターばっかり使ってきた人(外への行動や対処で解決しようとしがちだった場合)は、逆に一旦インナー(内的なことに意識を向けてみる)を使ってみた方がいい気がしていて、要はバランス大事だよね〜◎