「わたし」を分かち合いたい。

智慧を生きる人。自由気ままに絵を描くように、その命で智慧を表現する。“智絵”の名の通りに生きる。

 

性的に引かれあう二人は、ほんのつかのま、合一の幻想を抱くが、もしそこに愛がなければ、その「合一」によっても二人は以前に劣らず離れ離れのままである。

こうした形で結びついた二人はたがいを恥ずかしく思い、憎みあったりすることすらある。

なぜなら、幻想から覚めたとき、二人は自分たちが他人であることをいままで以上に痛感するからである。


エーリッヒ・フロム『愛するということ』 

 

たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求に気づいてすらいない。

 

誰もがこんな幻想を抱いている

 

私は自分自身の考えや好みに従って行動しているのだ、私は個人主義者で、私の意見は自分で考えた結果なのであり、それがみんなの意見と同じだとしても、それは単なる偶然にすぎない。


エーリッヒ・フロム『愛するということ』 

 

 

愛の失敗を克服するただ一つの方法は、愛の意味を学ぶこと、その第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であるということを知ることである。

 

愛の技術を習得するには、理論に精通し、その習練に励み、その技術を習得することが究極の関心事にならなければならない。


エーリッヒ・フロム『愛するということ』 

 

西洋社会を客観的に見てみれば、兄弟愛・母性愛・異性愛を問わず、愛というものが比較的まれにしか見られず、さまざまな形の偽りの愛によって取って代わられていることはあきらかだ。

そうした偽りの愛こそ、じつは愛の崩壊のあらわれなのである。


エーリッヒ・フロム『愛するということ』 

 

周知のとおり、こと相手が外国となると、どうしても客観的にみることができない。

相手国は堕落しきった極悪非道な国のように見え、いっぽう自分の国はあらゆる善と高貴さを代表しているように思われる。

敵の行動を評価するときと、自分たちの行動を評価するときとでは、それぞれ違う物差しを使う。


エーリッヒ・フロム『愛するということ』 

 

 

狂気に陥った人や眠っている人は、外界を客観的に見ることがまったくできない。

しかし、私たちはみんな、多かれ少なかれ狂っており、程度の差はあれ眠っているのであるから、世界を客観的に見ることができない。

いいかえれば、ナルシシズムによって歪められた世界を見ている。


エーリッヒ・フロム『愛するということ』