◆念願の引きこもり
引きこもりだった時
人と会わないことで、安心を保っていた。
就職してから1番嬉しかったのは、
仕事をやめさえすれば、
人に会う必要がなかったことかもしれない。
それくらい、人が怖かった。
いつも自分は、なんだか周りから浮いている気がしていた。
当時のわたしは、「学生は学校に行くもの」という考えを拭いきれなくて
こんな精神的に不安定な自分だからこそ、手に職をつけておかなきゃってことで
資格を取るまでは、大学を途中で退学するという選択肢も持てなかった。
だから、大学を卒業できて、無事薬剤師免許をとれた時は、本当に嬉しかったなぁ。
仕事を辞めると決めた時も嬉しかった。
学生時代は、学校辞めることに抵抗があったのに、なぜか資格という保険を持っていたから、仕事を辞めることについては、さほど抵抗なく辞めることができた。
さぁこれで、人に会わなくて済む。
しがらみから抜けて自由になれる。
世間体を気にして、疲れなくて済む。
そう思ってた。
満を時して?いよいよ、念願の引きこもり生活をスタート。
今思うと、そもそも、引きこもるまでの
学校とか、資格とか、就職とか退職とかって
そんな過程は必要だったのか?と疑問に思うけど(最初から引きこもりスタートで、よかったんじゃないか?笑 なんて冗談で思ったりもするけど)
すごい遠回りして、やっと引きこもりになれたんだ。
これで、安心して引きこもれる素地は整った。
よく今まで耐えたな、バンザーイ!って自分に拍手した!
それが、わたしが自分を大切にした最初の一歩だったとおもう。
さて、念願の引きこもり生活はというと、
誰にも会わないから、波風もたたない。
昨日まで、モヤっとしてた相手にも会うことがないから、心が揺らぐこともない。
人間ジャングルに行くと、ロクなことない。
外に出て、人と会わないことで、守られる安心がそこには、あった。
自分の痛みに触れなくていい、安心があった。
しばらくその安心に包まれていた。ホッとした。
だけど、なぜだろう。
わたしの魂は“自分には何かもっと体験したいことがある”ということを求めていた。
そしてそれは、逃げたくて仕方なかった人間関係の中にある。
心から望んでいる事は、おそらく、そこにある。
そのことを確信したんだ。
〜つづく〜
◆大切なこと
幸せとは、状況や環境のことではないなって
最近、改めて感じる機会があった。
状況や環境、外側のこと
もちろん、それらは大切。
けれど、やっぱりわたしが最も大切にしたいことはそこにはない、ということがハッキリとわかった。
確かに、明日食べるものに困っていたり
住む場所がなかったり
安心して暖を取って、ぐっすり眠れる場所がないとさすがにダメじゃん!って
それはそうだよな、とは思うのだけれど
アウシュビッツ収容所で生き延びた人の話にもあるように、外的なものが極限まで削がれてもなお、内面世界の自由って綺麗事ではなく、重要なんだとおもう。
人は幸せを感じやすい環境、要因を与えられても
その中で地獄を見ることも、天国を見ることもできる。
わたしにとって、最も幸せな瞬間は
本当の自分を知り、本当の自分を表現し
本当の自分を体験すること。
そして、そんな時間を、
本当の自分と共にある時間を、
できるだけ長くこの人生で持てたらいいな。なんておもう。
◆眼鏡
長年同じ眼鏡をかけ続けていると
その眼鏡が、あまりにも自分と一体化して
自分の一部みたいになってしまう。
その眼鏡が、たとえどれだけ曇っていたとしても、それをかけて自分や世界を見ることが普通になって、慣れているから
わたしなんて
世界なんて
人生なんて
そんなもんでしょ
みんなだってそんなもんだから
って、
自分をなんとか正当化して、なだめて
今の視野の曇り方に甘んじてしまう。
よりクリアに世界が見えるはずだという希望やクリアに世界をみたいという望みすら、いつしか諦めて持たなくなる。
眼鏡をかけているその目で、
幸せの眼鏡を探してもそりゃあ、見つかるもんも見つからない。
いったん目に眼鏡が張り付いてることを理解すること。
理解して、体感して、外してけばいい。
そしたら、どんどん視界がクリアになって
本当は最初から探すべき眼鏡なんて
どこにもなかったんだって気付いていくんだ。
◆センサー
今、心が開いているのか
閉じているのか
軽やかなのか
重たいのか
あたたかいのか
冷たいのか
いい感じなのか
なんかしっくりこないのか
そのことだけに意識を向けるようにしてる
意識を向ける先が
誰かがやったり、やらなかったりしたことに向いた瞬間、自分の軸がぐらつき、安定した足場をなくしてしまう感覚。
だから、自分の“感じ”にだけ、意識を向けてみる。
“感じ”は、自分を導いてくれる羅針盤であり、最高のセンサーだから。
気にかける対象が
シンプルになると、生き方が一気にラクになる。
もう誰かの顔色を伺わなくていいどころか
その方が、シンプルに、うまくいく。
孤立した個として生きるのではなく、
個と全体とがひと繋がりに調和して生きていける。
だから、力を抜いて生きていける。
すごい優しいセンサーを内蔵して
生まれてきたんだっておもうと、感動もんだな、こりゃ。
◆イノチと向き合う
外側が騒がしく思えたり
人のしていることが気になったり
あの人が自分のことを
どう思っているか気になったりetc
そんな時は
自分はどうしたいか?
そして今、わたしは何を感じているか?
自分に意識を向けてみる
そしたら、外側のことを材料に
自分のことがゆっくりと見えてくるよ。
焦らなくても大丈夫。
ゆっくりでいいんだ。
丁寧に、ゆっくりと
自分のイノチの道を知る時間を持つことの方が大事。
その習慣を落とし込むことが大事。
だって、自分のイノチを全うすること以上に
大切なことってないから。
◆簡単なことから
いつだって
簡単なことから始めていい。
そう自分に許可している。
今、難しければ
今はそのことについて
考えなくていい。
今は少しそのことから
距離を置こう。
そして、他の、もっと愛でるのが簡単なことに
意識を向けていよう。
だからって、
誰も、何も決めつけることはしない。
今はただ、流れと波を信頼して
そうしてるだけ。(次の瞬間はどうなるかはわからない)
ーーーーーー
わたしたちって、つい
難しいことに挑みがちじゃない?笑
その方が頑張った感があるし
そんな自分に価値があるような気になれる。
だけど、今この瞬間に
出してる“難しい”“挑んでやる!”という
エネルギーから、もう少し肩の力を抜いて
フラットになってもいいのかもしれない。
もっと流れを信頼していていいのかもしれない。
そうやって、都合よく?機嫌良く?
自分に甘く?やさしく?
ゆるゆると生きてみる。